りんご並木_(飯田市)
[Wikipedia|▼Menu]
りんご並木(2012年5月)たわわに実ったリンゴの果実。りんごの木の1本(紅玉「日本の道100選」顕彰碑と「手作り郷土賞」顕彰プレート

りんご並木(りんごなみき)とは、長野県南部の飯田市街地内にある大通りに約400 mにわたって植えられた、リンゴによる並木通りである。かつての大火の復興のシンボルとして広まり[1]、現在は街のシンボルとして親しまれている。旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された日本の道100選や、かおり風景100選に選定されている[2]1999年平成11年)に整備された公園の両側を通る道路は歩行者優先で、地域住民や観光客の散策に利用されている[1]
概要

並木通りは全体で1 km程度あり、そのうち、りんご並木に当たるのは450 mほどの部分である。飯田市公民館横のハミングパル(人形時計塔)を境にして北側から大宮神社前はサクラ並木が作られており、こちらは桜の名所となっている[3]。りんご並木は1947年昭和22年)に発生した「飯田大火」の復興過程で、当時の飯田市立飯田東中学校の生徒達の提案により作られ、今日まで代々東中の生徒の手で育てられている[1]。生徒の行う作業は、施肥・剪定・草取り・収穫と全般に及ぶ[4]。収穫したリンゴの果実は、生徒自ら給食で食したり、飯田市内の小中学校・福祉施設などに無償配布したりしている[5]。また、東日本大震災の被災地へも贈られたことがある[1]。ただ、植樹後間もなくから現在に至るまで、たびたび収穫前に果実の盗難に遭っている。

最初に植えられた1953年(昭和28年)11月当時のリンゴの木も残されており、接ぎ木などの手法により守られている[6]

1999年(平成11年)には並木全体が大きな公園として整備された[2]。これ以降、イヌの散歩をする人や水遊びをする子供などが増え、生活道路として定着していった[7]。地元住民達の管理によってりんご並木は守り継がれ、2001年(平成13年)に「美しい信州の景観づくり功労賞」を受賞したなど[8]、高い評価を受けている。

また並木通りは、大火の教訓から町の防火帯としても機能するように考慮されている。市街地の7割強を焼き尽した飯田の大火後に、飯田市中心街は2本の30 m幅員の防火帯道路が街の中心で交差し、町が4分割されるように整備された。これは万が一の大火災時に、町の4分の1が焼失するのみで喰い止め、それ以上の延焼を防ぐ為である。元来、りんご並木は並木通りとして作られたのではなく、この防火帯道路の中央にある緑地帯に、リンゴの木が植えられた物が始まりであった。
路線データ

路線名:飯田市道1 - 1号線(りんご並木大宮線)
[9]

区間:飯田市諏訪町 - 同市扇町(約1.2 km)[9]

周辺

飯田市立動物園[1](並木南端)

川本喜八郎人形美術館[1]

歴史大火から5か月後の飯田市中心市街地
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成(1947年9月22日撮影)。

元々の飯田市は細い路地と木造建築物が密集する町であり、1947年(昭和22年)に市街地の約4分の3を焼き尽くす飯田大火に見舞われた。この反省から、復興時に市街地の防火帯としての機能を兼ね備えた、飯田市諏訪町(大宮神社前) - 扇町(市営動物園前)の区間に、延長1200 m、幅員30 mの街路が作られた[8]。その街路の中央通りから扇町までの延長40 mの中央分離帯に、飯田東中学校の全校生徒が「りんごの実が輝く美しいまちに」という願いを込めて、リンゴの苗木40本を植えたのが、りんご並木の始まりである[8]

その後、同中学校緑化部(現・並木委員会)の生徒達を主体として、リンゴの苗木は大切に育てられた。この結果、初夏には白い花をつけ、夏から秋にかけてリンゴの果実が実るようになり、生徒達の手で収穫されて、市内の各施設へ「愛の贈り物」として届けられるようになった[8]。しかし、1960年代からモータリゼーションが本格化すると、周囲環境の変化により自動車とリンゴの木との共存が難しくなってきた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:46 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef